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![]() 米軍統治下の女性運動 参議院議員 糸数 慶子 「復帰前」 1,収容所の中の女性参政権 沖縄の女性が本土に先駆けて(7ヵ月も早く)参政権が認められたこと(1945年9月12日)は特筆すべきことですが、しかしそれは収容所の中で選挙が行われるという、きわめて特殊な状況下での出来事でした。 ※米軍政府は軍事優先の占領行政をとりながらも、民主主義を唱え、男女同権を説き、女性に対しては本土より早く史上初の参政権を与えた。その結果、戦後三年目の1948年(昭和23年)2月、第2回市町村議会議員選挙において、首里婦人会会長であった武富セツがみんなに推されて立候補、最高得点で当選した。 2,基地の強制収用に抵抗する女性たち 収容所から解放され、自らのムラに戻ると、ムラは米軍基地に強制収用され、住む家もないという有り様でした。たとえば読谷村は46年前には対面積の90%が米軍基地にとられてしまいました(現在は45%)。幸い自らのムラに帰ることができた人々も朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日)が始まると再び沖縄の米軍基地は強化され、米軍は農民の土地を強制収用し、基地建設をしていきます。 宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜の土地闘争は知られていますが(銃剣とブルドゥーザーで強制収用)、そこで女性たちは激しい抵抗を示し、「闘争の最後は女たちががんばった」(『沖縄女性たちの戦後』沖縄県婦人運動史研究会)と言われています。 3,米兵によるレイプ 戦後、沖縄では基地の周辺で女性への強姦事件が頻発しました。私が共同代表をつとめる「基地軍隊を許さない行動する女たちの会」では、資料『戦後米兵による沖縄女性への犯罪』を作成しています。しかし記録されているのは氷山の一角で、多くの事件は闇に葬られたままです。米兵による強姦事件は、赤ちゃんから小学生と年齢にかかわりなく起きています。1955年には、6歳だった「由美子ちゃん」がレイプされ、惨殺されています。 1959年、石川市宮森小学校に米軍ジェット機墜落、17名が死亡、120人以上が負傷する事故も起きました。その半年後、イノシシと間違えた米兵が農家の主婦を射殺。1963年、青信号で横断歩道を渡っていた中学生を米軍車両で轢殺、女性たちの所帯を米兵が包丁を持ち襲った事件など、米軍の事件事故は後を絶ちませんでした。 4,事件、事故だけではありません。1962年ごろ、全国的に小児麻痺が流行し、本土ではソ連製のワクチンが輸入されたものの沖縄では輸入できず、沖縄県官公庁労働組合(官公労)を通じて「子どもを小児マヒから守る沖縄協議会」にガラタミン100本が送られることになったものの、これが米軍の圧力で差し押さえられたので、母親と女性たちは連日(「米国民政府」)ユースカー(那覇市在)に押しかけ、輸入許可を求める運動を展開し、その結果、輸入許可を勝ち取り、多くの子どもたちが救われました。これを契機に官公労婦人部が結成され、女性たちの活動が組織化されてきました。 1964年、沖縄教職員会は、戦前、戦後を通じて教員資格を持っていても男女の給料に格差があり、10年かけた運動の結果、給料格差問題が解決され、また同年、公立保育所設置のための日本政府の補助が初めて実現しました。 1965年、米軍基地に働く女性たちの組織である全軍労婦人部が働く婦人の活動の中心になっていきました。 5,婦人団体連絡協議会の結成 1967年、12団体が参加し、「生活の向上をはかり、婦人の権利と子どもの幸せのために力を結集する」目的で、沖縄婦人団体連絡協議会が結成されました。 「復帰後」 1,復帰後は、自治労とりわけ沖縄県職労婦人部が積極的な活動を展開し、1979年、県職員初級採用試験で男性と女性の試験を区別し、採用差別をしていたことに反対闘争を展開し、採用時点での男女差別を撤廃させました。 1977年、育児休暇の全職種適用、1981年家族看護休暇を実現、1982年には夫婦共働きの県職員で夫婦のうち、いづれかが管理職になる場合、もう一方は辞めさせるようにという共働き禁止の県人事課構想反対の取り組みを行い、構想を断念させ、1984年には、男性にのみ認められていた扶養親族を同伴して赴任する場合の扶養親族移転料支給条件改善を、女性が子どもを同伴して赴任する場合にも認めさせました。 2,国際的な連帯による人権意識の高まり ・国際婦人年=国連婦人の10年(1976年~1985年) ・国際婦人年世界会議(メキシコシティ)への参加 「世界行動計画」採択➝婦人行政の総合窓口の設置 ・「国連婦人の10年」ナイロビ世界会議に参加 1985年「うないフェスティバル」の開催 ・「北京会議」 NGO北京国際会議に沖縄の女性たち84名が参加し、「戦争中、軍隊駐留中を問わず軍事基地のある地域の女性に対する犯罪はすべて戦争犯罪と位置づけ、国連及び政府レベルの特別人権調査をするよう要請する」と、提案しました。 3,95年の米兵による少女レイプ事件と女性たちの行動 4,米軍基地の存在する国の女性たちによる国際連帯「東アジア・米国・プエルトリコ軍事主義に反対する女性ネットワーク」による国際会議(沖縄、ワシントン、韓国、フィリピン等で開催)(注)あらたにグアムが参加 5,現代の紛争下の女性に対する犯罪国際公聴会での証言(2000年)。公聴会では沖縄の女性が自らの体験をはじめて証言した。 6,今後の課題 ・女性に対する人権侵害は沖縄だけの問題ではない。長崎、神奈川、山口など米軍基地所在地でも被害が発生している。 ・県内においては「強姦救援センター・レイコ」(女性のボランティア組織)が誕生した。 ・ホットラインとして、被害者の深い傷をいやし、人権回復の公的システムの確立を求めていく。 (終わりに) 駆け足で沖縄の女性たちの活動を紹介しましたが、この女性たちの活動の礎となったのは平和活動、そして女性や子どもたちの人権の確立です。女性たちの発した声や活動は政策・方針を変えさせるための参画でした。 人権の確立、政策・方針過程への参画、性別に敏感な視点、まさにこれらの活動は男女共同参画社会基本法の目標にもつながるものだと言えます。厳しい社会背景の中でも真摯にこのような社会を女性たちは目指してきたのです。 さらに、もう一歩、大きく踏み出すためには女性の政治参画を推進しなければなりません。今日、この場から、その歩みを強化していきましょう。 ※この論考は、4月11日に行われた「第5回全国女性議員サミットinぐんま」のパネル「女性の政治参画を推進するために」で糸数慶子がレポートしたものです。パネラーの持ち時間の制約から、当日はこの一部しか発表できませんでした。 ※※2日間にわたって行われた同サミットの参加者は535名に上りました(議員270,一般265名)―実行委員会発表。
by itokazu-keiko
| 2009-04-16 15:54
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