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糸数けいこの活動日誌
by itokazu-keiko
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反基地闘争を闘い続ける中で-まなぶ5月号に

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「月刊まなぶ」2014年5月号 特集 沖縄・福島 たたかう女性たち

  反基地闘争を闘い続ける中で
                                   参議院議員 糸数 慶子

 はじめに
 沖縄の女性は強い―よく言われていることですが、これは何も沖縄に限ったことではないでしょう。消費者問題、原発問題と全国で女性たちは、先頭に立って闘っています。とはいえ、沖縄の女性は砲弾をくぐり抜け、親、兄弟、夫や子どもまでなくしながら、やっとの思いで沖縄戦を生き延びてきました。ところが戦争が終わり、新しい生活を送ろうというときに、また新たな恐怖が女性たちを襲いました。米兵による暴行事件が続発したのです。捕虜収容所のなかで、あるいはそこから畑に行く途中で、子をおぶっていても、誰かと一緒にいても米兵の性暴力の犠牲になりました。捕虜収容所から出たあとも、暴行事件は数限りなく起こり、暴行されたことを内緒にしていても、親と肌色の違う子どもが生まれたことで発覚し、離縁されることもありました。そういう意味では沖縄女性の戦中・戦後の歩みは決して一般化されるものではないでしょう。

 闘いの先頭に
 米軍は沖縄を27年間占領し、その間、県民の人権は踏みにじられていました。人権が尊重される、素晴らしい日本国憲法のもと祖国日本への復帰を願うのは自然でした。しかし復帰後も依然として基地は残り、そこから発生する問題が県民を苦しめています。そのようななかで、故宮里悦先生率いる沖縄県婦人連合会等の女性団体は、基地にまつわる事件、事故が起こる度に抗議行動に立ち上がり、日米両国に基地の撤去を求めました。宮里先生は1975年、国連史上初めて開かれた軍縮特別総会のために訪米し、婦人集会において国際世論を高めて軍拡競争を止めよう、と訴えました。また1982年6月、ニューヨークで開かれた第二回国連軍縮特別総会の折、沖婦連代表団は百万人の国際デモ行進に加わり、紅型の陣羽織でカチャーシーを踊って「ノーモアオキナワ(もう二度と沖縄戦の過ちを繰り返してはならない)」と訴え、大変な盛り上がりを見せたということです。このように沖縄の女性たちは平和のために精力的な活動を展開してきました。しかしながら、復帰して40年以上経った今日でも米軍基地の過重負担は変わっていません。
 1995年に少女暴行事件が発生したとき、真っ先に立ちあがったのも女性たちでした。折しも私は女性の人権について話し合われたNGO北京国際会議に出席していました。そこでは「女性の権利は人権である」とヒラリー・クリントン氏が訴えていました。そのような時期に事件が起き、私はすぐに高里鈴代さんら他の女性たちと協力して「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」を立ち上げました。1995年当時まで、女性たちはずっと基地の被害を受けながら、なかなか声をあげられずにいました。特に性暴力事件などは被害者が泣き寝入りしてしまうことが多いことから「女性がまとまって声をあげなければ!」という強い思いがありました。一方で「基地問題を女性の人権問題にすり替えるな」という声もありました。当時はまだ女性への性暴力の問題に偏見があったのです。私は、基地問題は人権問題と捉えています。女性の人権もありますが、県民全体の人権問題です。   
 1995年以降も沖縄の女性たちは、米軍関係者による事件・事故、それに対する処罰の在り方そして日米両政府の沖縄への基地の押し付けに対し、常に女性の視点、母親の視点で抗議の声をあげています。例えば2011年に米軍普天間飛行場移設先の環境影響評価書の提出時期について「これから犯す前に、犯しますよと言いますか」という女性蔑視の不適切発言を行った田中聡沖縄防衛局長(当時)に対し、県内各地から女性たちが集まり、発言に抗議するとともに、辺野古新基地建設の撤回を求めました。田中局長発言によって、政府は環境影響評価書の提出を見送りました。そのような過失がありながら、政府が辺野古新基地建設計画に固執し、沖縄の声を無視し続けることに対して憤りを禁じえません。

 辺野古に基地をつくらせない
 最近では昨年12月の夜、女性たちがペンライトやキャンドルを手に県庁前に集まり「『知事は公約を守り、辺野古埋め立てを認めないで下さい』女性集会」を行いました。皆口々に「知事は政府の圧力に負けずに踏みとどまり、埋め立てを不承認としてほしい」と、知事を励ます発言をしていました。これはいつもの抗議とは様相を異にしており、保守的な知事を支えるという、かつてない珍しい集会でした。耐用年数200年ともいわれる辺野古の新基地を子々孫々にわたって背負わせることはできない、この闘いは私たちの代で終わらせたい、という人たちが500人も結集しました。すでに自民党の県選出国会議員5名と自民党県連は政府の圧力に屈して公約を破棄し、辺野古容認に翻っていました。切羽詰まった状況のなかで、何としても知事に不承認を貫いてもらわなければならない、という必死の集会でした。ところが12月末に仲井眞知事は辺野古埋め立てを承認してしまいました。県民の民意をまったく無視した暴挙でした。

 再びワシントンで訴える
 知事の埋め立て承認の意味は大変重い。というのは県政史上初めて沖縄の知事が自ら基地建設に許可を出したことになるからです。この流れを受けて、2年前24名で訪米した要請行動に引き続き、今回は私の呼びかけで、新垣清涼県議、上原快佐那覇市議と共に、今年1月末に「辺野古新基地建設に反対する議員要請団」の団長として訪米しました。米政府関係者、連邦議会議員、シンクタンク研究員等に直接面会して「知事は県民の声を代弁していない、沖縄県民は新しい基地を望んでいない」ということをはっきり伝えなくてはならないと思ったからです。名護市長選では「辺野古の海にも陸にも新しい基地はつくらせない」と訴えて稲嶺進市長が再選を果たしていました。そこで稲嶺市長の親書を携えて米政府関係者や議会議員に面会し、要請を行ったのです。
 訪米してみると、私たちの予想していたとおり、米政府や議会内では知事の承認をもって普天間飛行場移設問題は解決した、という考えが一般的であることがわかりました。今回の訪米では辺野古新基地建設の中止以外にも、普天間飛行場の早期撤去、オスプレイ配備撤回を要請しましたが、これらの要請内容に対するコメントは「普天間の危険性を早期に除去するためには辺野古が唯一の解決策だ」「オスプレイは何の問題もない」の一点張りでした。ただ、名護市長選で稲嶺氏が当選したことに対する関心は高く、改めて名護市民が稲嶺氏を選んだことの意義は大きかったと感じました。
 今回の訪米では、ジム・ウェッブ氏という大変心強い協力者を得ることができました。ウェッブ氏は元上院議員で、今も有力な議員たちに影響力のある方です。そのような方が沖縄の抱える問題に理解を示してくださり、今後も協力すると声明を出してくださいました。ウェッブ氏は、米軍基地問題の解決のためには、日米両政府だけで話し合うのではなく、沖縄とグアムが参加して4者で解決を目指す必要がある、とおっしゃっています。今後の問題解決の道筋が見えてくるのでは、と非常に期待しています。
 また、米軍内の性犯罪撲滅のため、被害者や救済団体とともに国防総省を相手に健闘している上院のジリブランド議員の補佐官に会った際、沖縄の戦後の在沖米軍関係者による性犯罪のデータを差し上げました。このデータがジリブランド議員の関心を引いたことは後の報道で知りました。米国内でも、米軍内部の性犯罪事件が注目を浴びています。海外の基地においては、地位協定の問題もあり、被害者より加害者が守られるケースもあります。そもそも軍隊は、戦争の準備をする組織であり、構造的な暴力集団です。軍隊がなくならない限り、暴力はなくなりません。「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」に集まる女性たちは、あらゆる基地、軍隊を沖縄からなくすことを目標としています。そうなったときに、沖縄に真の平和が訪れると思うのです。
 最後に、稲嶺名護市長が近く訪米し、地元の声を届けることになっています。こうして沖縄県民が諦めずに何度でも訪米し直接訴えていけば、必ず県民の思いが届く日が来ると信じています。またそうしなければ、辺野古埋め立てを承認した仲井真知事が地元の思いを代弁していると誤解されかねません。米軍基地の存在が沖縄県民の人権を侵害し続けている状態を民主主義国家の日本と米国が黙認しています。また、この状態を是として「抑止力」の名の下で広大な米軍基地を押し付けて何の疑問も持たない国民が圧倒的に多いため、沖縄の基地問題は放置され続けています。本土からも是非沖縄に連帯の声をあげてほしいと思います。(いとかず けいこ)

※「月刊まなぶ」(発行所 労働大学)2014年5月号2~5ページに掲載
※※同号には、沖縄から「軍隊は構造的暴力」源啓美さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)、「平和を求め行動しなければならない日常が」西村愛里さんの報告も掲載されています。

by itokazu-keiko | 2014-04-12 14:14 | 活動日誌
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